てんとう虫



 空はどこまでも澄み切っている。
 まるで色紙を切り取ったようなその青には、真っ白な雲が浮かび、誰が見ても晴れ晴れとした祝福の空だった。

 生態系が分離する時、鳥が空を行き場所と決めた理由が今なら分かる気がする。

 土手はなだらかな斜面でそこには葉の長い草が生い茂っていた。
 一面の緑の中に点々と、白爪草が時折、色を添えていて、暖かな日差しの中、ピクニックをするならもってこいという陽気だ。
 風は強くなかった。
 

 土手の上に腰を下ろし、膝の上で頬杖をつくというポーズでハロルドは、飽きもせず、土手の下で大勢が作業をしているのを見つめていた。
 その視線の先では、畳んであった大きな布を数人がかりで広げ、大きな籠は用意している途中でバランスを崩してころんと転がる。
 数人いるにも関わらず、彼らの手つきは誰一人として不慣れなもので、そのうえ、自分たちのしている事を、単なる夢物語
 ・・・自分たちが最も結果を信じていない・・だと思っているのか、妙に諦めの空気が周囲にもそれを分かるほど、はっきりと漂っている。
 
 最初の一歩も、最初の成功も、なにかをしなければ、その結果には至らない。


 

「あれは、無理ね・・・。」
 ハロルドはつぶやいた。
「重心が傾いてる。空気の熱し方も少ないわ。少し風も出てきたし、浮かぶ前に飛んじゃうのが関の山・・・。」
「なら、そうアドバイスしてやったらどうだ?」
 隣に立って、同じく作業をしている人々を見下ろしていたジューダスが言った。
「お前の知識を用いれば、あれを浮かせてやることなど、簡単だろう?」
「まあね。」
 ただ、それでは意味がないと思う。
 ハロルドは確かに天才だが・・・それであるが故に、欲しいものを自分の手で、手に入れられる確立は非常に高い。
 そしてそれはハロルドにとっては当たり前の事だ。
「けど・・・普通はそうじゃないんでしょう?」
 普通なら、それは努力の試行錯誤の連続の先に待っているものだ。
 成功すると初めから分かっているハロルドと、成功するかどうかは分からず、ダメならできるまで何度でも諦めない者。
 トライするという事に意味を見出せるという意味では・・・ハロルドは自分の方が損をしている、と思う。
 何度でも飽くなき挑戦をした者が、成功の果てにみる喜びは、きっと格別だろうから。
「自分たちの手でやらせてやろうという訳か。なるほどな。」
 ジューダスは少しだけ声に笑いを含ませる。
 それだけ聞くと一瞬、皮肉にも聞こえるいつもの笑いだが、そういう意味が含まれている訳ではない。
 ハロルドは最近になってそれがわかった。

 わーっという声が土手の下であがる。
 バルーンは案の定、膨らんでいる途中で風に煽られ、ひっくり返ってしまった。
 
 それをきっかけにしたように、立っていたジューダスがハロルドの横に腰を降ろした。
「一度聞こうと思ってたんだが。」
「なに?」
「お前はどうして科学を志したんだ?」
 そっちの方に才能があったから、というのが打倒だと思う。
 科学以外に事には、ハロルドは皆目うとい。全てにおいて天才ではない、という証拠だ。特に音楽方面には。

「ん〜。」
 なんだかよく分からない返事をハロルドは返す。
 気持ちは、ジューダスの質問に対する答えよりも、手の先に貼られた絆創膏にいっている。
 それは昨日、食事当番の時に、軽く切ってしまった時のものだ。
 切り傷から血が出てくるのを、あちゃーなどと言いながらのんびりハロルドが見ているうちに、めざといジューダスが気がついて、貼っ

てくれた。

 自分には必要がないと思ってた。
 自分の人生には、あまり関係のない感情だと。
 その事をかつて兄に諌められた事があった。
「人間同士の間にあるモノを、関係のないなどと否定的に言ってはいけない。」
 
 けれど、兄さん。あなただって、結局のところ、そう思っていたのではないの?
 凡人に私は理解できないように、その感情を私が必要とすることはない、と。


「私が科学に興味持ったのは・・・。」
「めずらしいな。」
 答えを言いかけたのに、まるで聞いていない感じでジューダスが遮るので、ハロルドはムッとする。
「ちょっと聞いてるの!?」
「てんとう虫だ。」
「なにがてんと・・・てんとう虫!?」
 今更説明するまでもなく、ハロルドは虫が大好きだ。
 さきほど機嫌を悪くしたことなど一瞬で吹き飛んだらしく、ハロルドはどこ?どこ!?とジューダスに問いただす。
「動くな。」
 仮面の下から苦笑を覗かせ、ジューダスはきょろきょろと動かしていたハロルドの頭を止めた。
「ここだ。」
 そっとハロルドの耳の上あたりの髪の中に指を差しこむ。
「つぶさないでよ?」
「そんな事はしない。」
 そうしてジューダスは慎重に手を開いた。
 今にも翅を出して飛んでいってしまいそうな小さなそれは、可愛らしい赤い色をしている。
「ナナホシ〜v」
「やはりか。」
 ジューダスは今度こそ笑い声で言うので、ハロルドは、ん?とその顔を見る。
「やはり、お前の時代から同じ名前なのだ、と思ってな。」
「・・・・・そ。」
 ホラ、とジューダスはハロルドの手のひらに、てんとう虫を移す。
 そっとひらいた指を這うようにして、ちょこちょことてんとう虫が歩くのを見ながら、一瞬、ハロルドはその小さな虫を救いの天使のよ

うに思った。
 この男と自分との間にあるどうしようもなく巨大な時間軸を、軽く飛び越えてきた存在。

「小さくても生きてるな。」
 ジューダスがなにを思ったかは知らないが、そんな事を突然言う。だが、それきり興味を失ったように再び視線を土手の下の、バルーン

を膨らませている人々に移してしまった。
 ハロルドはひとり、まるで取り残されたかのようにして、手の中のてんとう虫に注目していた。
 もうふたりの意識のある場所には、隔たりができてしまった。
 その事を少しだけ寂しく思うのは、妙な感傷というものだろう。

「そうだ、お前。」
 ジューダスが言った。
 きちんと、ハロルドの方に顔を向けて。
「先ほど、言いかけたな。どうして科学に興味を持ったのか。」
「ああ、それ?」
 ハロルドは唇とちょっと尖らせて、ジューダスを上目遣いに見る。
「・・・なんだ?」
「そんな事まだ聞くのかって思って。どうでも良さそうなもんよ?私のことなんて。」
 人事のようにそう言って、それはかなり突き放した言葉だ。
 それで怒るだろうと思った。
 牽制のつもりだった。・・・これ以上、不用意に近づくなという意味を込めて。
 聞きたいのはむしろ兄よりも自分の方だ。できるなら、自分自身に詰め寄りたい。
 この私が、なんで7歳も年下の男に。
 自分が問いかけても明確な答えを返さないのが、自分自身だ。
 自分のことだけが、いつだって一番分からない。
「まあ、たしかにな。」
 ジューダスは、ハロルドに失礼な言葉を投げかけられて、だが、怒らなかった。
 むしろ自分自身に呆れたように、少しだけ笑うと、
「だが、減るものでもないだろう。教えろ。なんでなんだ?」
 などと言う。
 どうやらジューダスは、機嫌が良いらしい。
 ・・・私の事に、興味を持つなんて。


「・・宇宙に行ってみたかったから。」
「宇宙、か?」
「そうよ。まだちっちゃい頃、初めて星が丸いって知った時にね。」
「・・・それは、何歳くらいの話だ?」
 ん?と首を傾げたが対して考えもせず、ハロルドは、なんでもない事のように答えた。
「4歳の時?」
「・・・そうか。」
 そんな訳はないのに、ジューダスは4歳という年齢に惑わされ、ついついハロルドも、普通の子供と同じ連想をしたのだと思った。
「宇宙から丸い星を見下ろす事に憧れてたという訳か。」
「まあね。だってこの目で確かめないと、丸いって言われても信用できないじゃない?」
「・・・・・。」
 ジューダスは呆れたようにハロルドを見たが、ハロルドの方は別に変わったことを言っている自覚がない。
「まあ、今では理論的にも、他の方法ででも、それを証明できることを知ってるから?丸いって事は疑ってないけど・・・。その頃は、自

分の目で確かめることでしか、確たる証拠を得られないものだって思ってたのよ。子供だったの。私も。」
「そういう事は。」
 ジューダスは言った。
「別に子供でもないんじゃないか?自分で確かめたもの以外は信じないという事は、ある意味では大人の知恵でもある。」
 ひねくれていると言ってしまえばそれまでだが、悪い事でもないように思う。
 なのに、ハロルドは一言の元に言い捨てた。
「自分以外を信じないという態度が、子供だったって言ってるの。」
「・・・・・。」
 今度こそジューダスは呆れ、ハロルドを見る。
「お前は。」
 つまらなそうに土手の下を見下ろしている、横顔に向かって、
「・・・自分に厳しすぎやしないか?」
「・・・・・!」
 そこまで求めなくても良いだろう、とまるで慰めるように言われ、ハロルドは思わず、続けようとしていた言葉を見失ってしまった。

 会話が噛み合ってないようなのに、確信部分を射抜いてくるこの男の言葉は、油断している時にこそ、絶大な効果を齎す。
 見抜かれている。
 本当は・・・自分で言うほど、自分の事を認めていない、という事を。


 たったひとつの運命を覆えす事もできず、そのうえ、今にも崩れ落ちていきそうな未熟な精神の持ち主である自分の事を。



「あ。」
 その時、風が吹き、まるでそれを待っていたかのようにてんとう虫はハロルドの手から離れた。風に乗り、飛んでいってしまう。
 あっという間に見えなくなった姿を、見送っていた視界がにじむ。
 胸に飛来した先ほどの衝撃が、思いのほかダメージが大きかったのだと、ハロルドは平静を保っていられない自分自身で気がついた。
 立てていた両膝に、額をくっつける。
 おかげで、歪んでいた視界が隠れたが、代わりに鼻がつん、と痛んだ。

「ジューダス。」
 ハロルドは言った。
「世界はなんのためにあるの?」

 彼はかすかに笑いを含んだ声で、彼らしくなく、そしてもっとも彼らしい答えを、ハロルドに示した。
「お前に、知られる為にある。」

 空も大気も花も水も、この世にある全ての、隠れている細胞の、DNAのつくり、それこそが。

「お前に解析される為だ。」

 
 そしてジューダスは、未だに浮かばない、ぶかっこうに膨らんだ気球のバルーンを見ながら、顔を伏せているハロルドの、薔薇色の後頭

部をぽん、と撫でた。

「お前は、思うままに生きろ。」


 世界と、未熟な人類の為に。


「・・・・・。」
 ハロルドは膝の上に伏せた顔を上げなかった。
 それは、膝の上に流れてきたものを、見られたくなかった為だ。

 
 お前は。


 思うままに生きろ。



 ・・・お前だけは。



 
 ハロルドは世界などいらない。
 このまま流されてば、すぐ隣にあるぬくもりさえなかった事になる、そんな世界など。

 だが、ジューダスはハロルドのそんな気持ちすら見越していたようだった。


 そして、初めてハロルドは知った。
 

 自分には、敵わないものがこの世にあるという事を。


「しかし、宇宙か。」
「なによ?」
 一度深呼吸をし、ハロルドは伏せていた顔をあげる。
 深く吸い込んだ空気のおかげで、普通の、動揺のない声が出せたはずだ。
「なにか文句でも?」
 軽く睨むと、ジューダスは笑い、
「文句などない。」
 と言った。
「それが子供の時の夢とは、お前らしいと思っただけだ。」
「なんかひっかかるわね、その言い方。じゃあなんなら、私らしくないのよ?」
「・・・さあな。」
 ジューダスは、少しだけ真面目な顔になり、首を傾げる。
「お前らしくない、お前というのは、想像できない。」
 それは、ハロルドには褒め言葉でもある。
 にかっと得意そうにハロルドが笑うと、ジューダスも、つられるように口元を緩めた。
 穏やかな時間。
 まるで、明日もあさっても永遠に続くと錯覚しそうだ。

 そうハロルドが思った途端。
 
「しかし、それならば。」
 ジューダスは言った。
「もうすぐその望みも叶うな。」
「・・・・・そう、ね。」
 イクシフォスラーの改造は昨日、終わった。
 明日は、宇宙に飛び出し、この星を目掛けてやってくる神のたまごに乗り込む。
「まあ、忙しくてじっくりと星を見下ろしている暇などないかもしれんがな。」
「あら、そんな事?」
 ハロルドは、意識して明るい笑顔をつくった。
 それは、偽物だとバレているかもしれないが、それでも、ジューダスは覚えていようと思ってくれるはずだ。
 ハロルドがそういう顔で、笑うという事を。
「そんなの、帰りに皆でじっくりと見れるじゃない。」
「・・・それも、そうか。」
 ジューダスは言った。
「確かに、それならばゆっくり時間もある。勝利の後の楽しみ、という訳だな。」
「イクシフォスラーの中で、乾杯するのにお酒でも買っておく?」
「カイルとリアラは飲めないだろう。」
「その時くらいはうるさいの、なしよ〜。この世界を救うんだからさ。」
 ジューダスはそれには答えなかった。
 だが、口元には笑みを浮かべ、仮面の奥の瞳は、柔らかかった。
 
 ハロルドは深呼吸をもう一度する。
 そうでないと、今度は確実に、涙がこぼれてしまうに決まっている。

「まあ、その楽しみの為にも、明日はさっさとケンカを終える事にましょ。」
「そうだな。」
 
 ジューダスは笑った。
 その嘘の為に、嘘の笑いを返した。

 それが空ろな笑みだとしても、ハロルドにはその中にどれほどの意味が込められているかが、わかる。


「さて。」
 ハロルドは、立ち上がり、お尻についた土をぱんぱんと叩いた。
 そして、土手の下、未だ膨らまないバルーンを相手に、てんやわんやの人々を指差す。
「いっちょ、やつらにアドバイスでもしてきますか。」
 ジューダスはそれを聞いて、目を細めると、
「まったくお前は。」
 と非難めいた口調で言った。
「・・最初に成功する喜びをわけ与えるんじゃなかったのか。」
「ん?そんな事言ったっけ?」
「・・・・・。」
「まあ、いいじゃないの〜。」
 どっちでも良いのよ、そんな事、と鼻歌交じりに言うので、ジューダスは今日、何度目かで呆れてしまう。
 ハロルドは言った。
「なんてったって世界はわたしの為にあるんでしょ〜?なら、ありがたくひれ伏してりゃ良いのよ。」
「お前の為にある、とまでは言ってない。」
 思わず笑いが込みあげ、ジューダスは言った。
 けれど、心の中で、世界の全てがハロルドの為にあれば良いのに、と思った。
 すべてがハロルドに優しくあれば良い、と。
 そう、思った。





 あとがき:
 isaraさんからのリクエスト。
 ハロジュソングを題材にして、という事でしたので選曲は、青窈『てんとう虫』でした。
 ・・・もっと、こう・・・ほのかに甘い感じなる事をイメージしたのに、失敗しました・・・orz。
 こんなもので宜しければお受け取りを・・・。





 

 


感想
相互記念としていただきました。
私はこの曲が大好きです。
この小説がきた時にとてもびっくりしました。
この曲に関わらずこの人の曲は解読するのが難しいんですね。
詞が独特なんですよ。
そんな詞をもとにこういう風に明確に書けるというのがとても尊敬します。
第一曲をもとにするとどうしても歌詞を使いたくなってしまうから難しいと思うんですが。

世界は何のためにあるのか。
の使い方がすごくいいです。
ハロジュっぽくて・・・!


十望さまありがとうございました!!